*斎藤道三*

  
                     wikidediaより
 

 生没年 1494年〜1556年
 出身地  京都府(諸説あり)
 人物について ・「美濃のマムシ」という異名をもち、僧侶から油売り、そして下剋上によって戦国大名になりあがった人物。

・道三の父の死後、そのあとを継いだ道三は主人を倒し、家督と所領を奪い、その主人の姓まで名乗るようになる。
この次に守護代であった斎藤家も乗っ取り、斎藤姓を名乗るようになった。

・道三は家臣でありながら3家の主人を策略で倒した。

・息子の義龍とは仲が悪く、最終的に長良川の戦いにて殺されることとなる
補足 道三はひとりで美濃の国盗りした、ということで有名になっているが、最近では父子2代(道三の父と道三)にわたって国盗りをした、という説が有力となってきている。 
  補足
その2
 ・息子の義龍に家督を譲ったが、この家督相続にも策略があったとされている。

義龍はかつて※土岐頼芸(よしのり)の側室だった女性に産ませた子であり、道三は義龍が実は頼芸の子で土岐家の正統な後継ぎである、という噂を流したとされたいる。
実権は道三自身が握るつもりだったであったからである。

そして義龍よりもその弟たちを偏愛(ある人だけを偏って愛すること)するようになる。

これがのちの長良川の戦いへとつながっていくこととなる。


※土岐頼芸とは美濃の守護大名であり、道三が仕えていた。
逸話  織田信長と会見を行ったときに、信長は奇抜な格好で来た。
その姿に対し、道三の家来は信長を噂通りの馬鹿というが、道三は銃をそろえていることや、長い槍を持っていることに感心。
そこで「やがてわしの息子は信長の家来になるだろう」と言ったそうです。



  

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