長良川鵜飼




〜長良川鵜飼について〜

鵜飼い
鵜飼鵜養は、鵜を使ってアユなどを獲る漁法のひとつです。中国、日本などで行われている漁業の方法である。ヨーロッパでは16世紀から
17世紀間、スポーツとして行われました。日本の鵜飼は、岐阜県、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、福岡県など11府県、13箇所で行われている伝統的な漁法です。
そのなかで岐阜市にある長良川で行われる鵜飼いが長良川鵜飼です。


〜長良川鵜飼の歴史〜

鵜飼は鵜匠が鵜をあやつり魚を捕える漁法で、およそ1300年の歴史があり、時の権力者たちに保護されてきました。織田信長は「鵜匠」という地位を与え鵜飼を保した
と言われており、徳川家康はたびたび岐阜を訪れ鵜飼を見物、保護し、岐阜でつくらせた、鮎鮨を江戸まで運ばせました。また、鵜飼は多くの文化人のも愛され、松尾芭蕉は岐阜を訪れた際、鵜飼を見物し「おもうしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という句を残したほか、名優チャールズチャップリンは2度鵜飼い見物に訪れ、すばらしいと絶賛したと言われています。
『日本書紀』神武天皇の条に「梁を作つて魚を取る者有り、天皇これを問ふ。対へて曰く、臣はこれ苞苴擔の子と、此れ即ち阿太の養鵜部の始祖なり」と、鵜養部のことが見え、『古事記』にも鵜養のことを歌った歌謡が載っている。天皇の歌に「しまつとりうかひかとも」とある。また中国の史書『隋書』開皇二十年(600年)の条には、日本を訪れた隋使が見た変わった漁法として『以小環挂項令入水捕魚日得百餘頭(小さな輪を鳥にかけ日に100匹は魚を捕る』と記されています。



鵜飼の説明〜

漁法

舟首に篝火を付けた鵜舟に鵜匠が乗り10〜12羽の鵜を手縄をさばき、操り、篝火で驚かせた鮎を鵜が次々に捕ります。鵜匠は常日頃から鵜と一緒に生活しているため、鵜匠と鵜は呼吸の合った動きを見せ、見事に鮎を捕らえてきます。鵜の捕った鮎は鵜匠のより吐き篭に吐かせられます。総がらみによる巻き狩り漁法は幻想的です。漁に出る前にその日の出漁の順番を供乗りのクジ引きにより決めます。順番により漁獲量が変わるため鵜匠にとっては重要です。

装束(鵜匠の服装)

@風折烏帽子(かざおりえぼし)
 黒または紺色の麻布で、頭に巻き付けて篝火から髪の毛を守る。先が尖っているのは本来ちょん髷を収納するためのもの。形が風に吹かれ折れているように見える事からこの名前が付いた。
 A漁服(りょうふく)
 黒または紺色の木綿で出来た服。明るい色の服は鵜の恐怖心を煽るため暗い色の服になった。
 B胸あて(むねあて)
 火の粉や松脂を避けるためのもの。収納ポケットにもなる。
 C腰蓑(こしみの)
 ワラ製で水しぶきを払い体が冷えるのを防ぐ。 
 D足半(あしなか)
ワラ製で普通のわらじの半分の長さのつま先で履くわらじ。魚の脂や水垢で滑らない  ようになっている。ワラで作った足半は貴重なため、ビニール紐で作った足半が使用 される場合が多い

鵜舟



鵜舟(うぶね) - 鵜匠が鵜飼に用いる舟を鵜舟といいます。全長約13m。鵜舟には鵜匠のほか鵜舟を操る責任者「供乗り(とものり)」と、鵜匠と供乗りの助手である「中乗り(なかのり)」が乗っており、この3人が1組となって鮎を捕りながら長良川を下っていく。岐阜市営の鵜飼観覧船造船所にて造船された鵜舟が使用されています。

鵜





鵜飼に使用する鵜は海鵜を使っています。これは川鵜に比べ海鵜の方が体が大きく丈夫なためです。野生の海鵜を捕獲してきて2〜3年訓練した後、鵜飼で使用される。鵜匠は自宅に20羽前後の鵜を飼っていて、漁に出る数時間前に全ての鵜を捕まえ鵜篭に入れ、その日の鵜の体調を見極め漁に連れて行く鵜決める。鵜への餌やりは1日1回でシーズン中は餌の量を少なくし、漁に行く前は常に空腹状態にさせています。空腹状態でない鵜は鮎を捕らないため、漁に連れて行く鵜には漁が終わってから与える。鵜飼では鵜を2羽で行動させる為、鵜飼以外の場所でも常に同じ組み合わせの2羽で行動させています。これによりこの鵜同士の仲が良くなるが、他の鵜との仲はあまり良くないです。尚、この組み合わせには雌雄の決まりはなです。
昭和初期までは伊勢湾で海鵜を捕獲していたが、現在は茨城県日立市十王町で捕獲しています。


                                               

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