☆早矢仕有的さんについて☆
文ばかりで読みにくいと思いますが、
読んでみると面白いです。
ぜひ、読んでください!!
早矢仕有的さんとは?
早矢仕有的さんは丸善という本屋の創業者です。
日本で初めて「会社設立趣意書」(かいしゃせつりつしゅいしょ)を書いたのが「丸屋商社」(のちの丸善)だと言われています。
「会社設立趣意書」とは、会社設立に対する思いや、どんなことをやる会社なのかが書かれている文書です。
「会社設立趣意書」の中で、有的さんは
「鎖国が開放されて間もない日本は、世界と比べ、近代化がかなり遅れている。このギャップを埋めることを使命としよう!」
と考え、洋書の輸入を行い、日本語に訳して販売しました。
これが日本初の洋書販売店になりました。
また、鎖国の影響で、世界の経済の仕組みが多く、
「これは日本の経済にとって良くない!」
と記しました。
世の中で商売を引き継ぐ家が圧倒的に多かった時代だったので、経済の発展が期待できないと思ったからです。
有的さんは、洋書を参考にして、
出資者(株主)と従業員で組織する会社を日本で初めて導入した人物です。
(日本初の株式会社です。)
早矢仕有的さんはもともと有名なお医者さんでした。
なぜ医者から経営者になったのでしょうか?
早矢仕有的さん(1837-1901)は現在の岐阜県山県市で生まれました。
父親が医者をやっていましたが、子供のころになくなってしまいました。
そして、父親を引き継いで、医者になることを決めました。
有的さんの能力はずば抜けていました。
18歳のときにはすでに医者になっていて、町の信頼を得ていました。
そんな有的さんの能力を見抜いた1人の男性が現れます。
その人の名前は「高折善六」(たかおりぜんろく)という人です。
「こんな町医者で終わらすのはもったいない。この能力を江戸で活かさなければならない。」
と考えた高折は、「10両」と「心のこもった和歌」をもって有的さんを送りだしました。
(この恩を忘れなかった有的さんは、高折善六の「善」をとって丸善にしたとの説があります。)
その後、日本橋の開業で成功を収めた有的さんでしたが、
「医学や蘭学(ヨーロッパの学問)の知識だけではだめだ!
これからは英学(黒船来航後イギリスやアメリカなどの学問が日本にも入ってきた)もちゃんと
身につけなければいけない」
と考えます。
そして、30歳を過ぎたころに福沢諭吉の私塾(この私塾は後に慶応義塾となります。)
に入学するのです。
福沢諭吉本人が「英学」・「経済学」を有的さんらに教えます。
そして、諭吉は有的さんの経済社としての能力を見抜き、会社を立ち上げることを勧めるのでした。
(諭吉は自らも資金援助を行うほどの力の入れようだったそうです。)
「会社設立趣意書」の考えは「諭吉」の経済に対する思いも込められていました。
早矢仕有的さんは会社の名前を「球屋」(まるや)としました。
世界で戦える会社という意味を込めて「地球」の球の文字を使ったそうです。
しかし、お客さんは「きゅうや」・「たまや」と間違った読み方をしたので、「丸屋」に変更したそうです。
そして、1870年に日本橋に「丸屋善七店」がオープンします。
有的さんが作り上げた本屋さんには、若い人たちを数多く雇い入れました。
彼らにとって、ものすごく恵まれた環境で働けたそうです。
昼間には本屋さんで働き、夜は有的さんが持っている数多くの知識を、働いている若者に教えていたそうです。
*参考ホームページ*
安田雑学