戦国武将・幕末志士 縁の地 |
〜竹中半兵衛〜 1544 ― 1579
【人物紹介】
本名を、竹中重虎。のちに竹中重治。
しかし通称である半兵衛の名のほうが有名。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀で、天才軍師(軍を指揮する君主のような者)とも呼ばれています。
同じく軍師であった黒田官兵衛とは、
半兵衛と共に秀吉の旗本であったため「両兵衛」と呼ばれていました。
また、痩身で体が弱く、見た目は女性のようだったといいます。
ある書物には「その容貌、婦人の如し」との記述もあり、
龍興の寵臣である斎藤飛騨守からは「女性的な外見だったから」と愚弄され、
櫓の上から小便をかけられたことも。
上記のように半兵衛は女性的ではあったが、剣術の腕前はかなりのものであったらしい。
半兵衛の死去は、戦場でのことであった。
死期を悟った半兵衛が、秀吉に戦場で死にたいと懇願し、陣中で亡くなりました。
これは1579年の6月13日のことで、死因は肺炎または肺結核とされています。
【大野町と半兵衛の関係】
歴史的に活躍した半兵衛ですが、その出身は大野町です。
彼の出生地に関する説はいろいろあるようですが、垂井町で発見された古文書には
半兵衛は美濃国大野郡大御堂城で、竹中重元の子として生まれたと書いてあります。
現在大御堂城は残っていませんが、昭和30年頃までは月真寺のあたりに城の土塁が残っていたとされています。
今は土地改良のため、それを見ることはできません。
石碑は、竹中半兵衛生誕の地の証として、平成8年に伝承地の一角に建立され、大野町の史跡に指定されています。
【竹中半兵衛誕生の地 所在地】 岐阜県揖斐郡大野町公郷2196 八幡神社 道路沿いにあります。 |
〜所郁太郎〜 1838 ― 1865
【人物紹介】
所郁太郎は、美濃国赤坂に生まれ、大野郡(現在の大野町)西方村の医者である 所伊織の養子となりました。 1860年には大阪にある適塾という蘭学の私塾で学び、 その後大野郡の所家に戻り、お辰と結婚。 そして再び京へのぼり、医者として開業しました。 |
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1863年に桂小太郎(後の木戸孝允)と知り合い、長州藩邸内の医院総督になる。
刺客に襲われて傷口が13か所だったという重症を負った井上聞多の治療をし、
一命を救うのに成功したことで有名です。
このとき郁太郎は、手術道具を持っていなかったため、傷口を畳針で縫い、
井上を「生きるためには苦痛がある、がんばって生きよ!」と励ましたそうです。
その翌年には、高杉晋作の奇兵隊に加勢し、高杉を遊撃隊参謀として助けて転戦。
陣中で発病し、吉敷村の陣営で28歳という若さで亡くなり、明治の世を見ずに、この世を去りました。
これは大野町西方にある記念碑です。
井上聞多の孫である三郎の多大な援助もあり、昭和13年に、生家跡に建てられました。
【所郁太郎記念碑へのアクセス】 大野バスセンターより、徒歩10分 岐阜県揖斐郡大野町西方425 |