生没年 | ?年〜1582年 |
出身地 | 岐阜県 |
人物について | ・本能寺の変で織田信長を自害に追い詰めた謀反人として有名。 ・信長から「きんか(ハゲ)頭」と呼ばれていた(後世の作り話とも) ・光秀は多くの学問に通じ、和歌や茶の湯も好む文化人で、朝廷の交渉役を務める荒くれ者揃いの織田陣営にあって異彩な存在であった。 ・信長の家臣のなかでは外様的な存在であり、ほとんどの者から嫌われていたとされる。 宣教師(キリスト教を広めるために外国に派遣される伝道者)によって書かれた「日本史」に記された光秀の姿は、 『性格は残忍で、裏切りや密会を好み、独裁的。、また、自分を偽装することには抜け目がなく、策略を得意とし、計略と策謀の達人』 とされている。 ・光秀は信長の懐の深さに感銘を受け、将軍を捨て信長の配下となる道を選ぶ。 だが配下となったのち、比叡山延暦寺焼き討ちなどを行う信長の行動に、光秀は疑問を抱くようになる。 ・光秀が本能寺の変を起こすきっかけとなったのが、信長からくだされた「攻め取った毛利領(現在の中国地方あたり)を光秀の領地とし、近江・丹波(現在の滋賀あたり)は没収」という命を受け、これに腹を立てた光秀は中国地方に向かう途中に 「敵は本能寺にあり!」と突如叫び、進路を信長がいる本能寺に向ける。 そして、光秀は信長を自害へと追い詰めたのだった。 ・本能寺の変後、豊臣秀吉と戦うものの敗れる。逃れる中、落ち武者狩りに竹藪で刺され亡くなったとされている。 |
逸話 その1 |
1582年に死んだとされたいるが、実は生きていて「天海」という僧になり、徳川家康の幕僚となったという説がある。 |
逸話 その2 |
驚異的な火縄銃の腕前をもっていたとされている |
逸話 その3 |
光秀は愛妻家であり、正室( 正式に妻として迎えた女性のこと)が存命中は、側室(正室がいる状況で後継者を作るために迎えた女性のこと)を迎えなかったとされている。 また、正室の煕子(ひろこ)と婚姻した後、花嫁修業中に※痘瘡にかかり、その病気によって皮膚に痕が残ってしまう。 これを恥じた煕子の父は光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、光秀はこれを見抜き「自分はほかの誰でもない煕子殿を妻に決めている」といい、何事もなかったかのように挙式をした。 ※痘瘡(とうそう):感染症の一つで、伝染力が非常に強く死に至る疫病として人々から恐れられていた。治癒しても皮膚に痕が残ってしまう。 別名に、天然痘(てんねんとう)、疱瘡(ほうそう)とも言う。 |