生没年 | 1544年〜1579年 |
出身地 | 岐阜県 |
人物について | ・豊臣秀吉のもとに「両兵衛」と呼ばれるふたりの軍師(戦の作戦や、戦略を考える人のこと)がいた。 その一人が竹中半兵衛である。外見は見た目は女性のようで、物静かな人だったとされている。 ・半兵衛の名を世に知らしめたきっかけが、難攻不落と言われる岐阜城を一夜のうちにわずか10数人で乗っ取った。 これを聞いた信長は、半兵衛に破格の恩賞を持って岐阜城の明け渡しを求めた。 だが、半兵衛はこれに応じなかった。その理由は、城を落としてみせることで仕えていた主人に態度を改めてもらおうと考えていたからの行動だった。 ・信長は半兵衛の才能と人格を認め、秀吉に家臣として迎えるように命じた。 だが、秀吉が半兵衛のもとに何度訪れても断り、7回目にして半兵衛は秀吉の直臣になることをで了解した。 ・謀反を起こした者が籠城しているとき、開城の説得にあたった両兵衛のもう片方の黒田官兵衛が捕えられてしまう。 裏切りだと勘違いした信長が、官兵衛の息子を処刑するように秀吉に命じた。 官兵衛の信頼を失いたくない秀吉に、半兵衛は偽物の首を信長に届けるように言い、官兵衛の息子と秀吉を助けている。 ・城攻めの途中に倒れ、そこで自らの死を悟った半兵衛は、武士ならば戦場で死にたいと秀吉の陣所に戻る。だが数か月後、陣中で息を引き取る。 |
逸話 | よく貧相な馬を乗っていたが、名馬を買うと、実際の戦闘のときにその名馬を惜しんで戦機を逃がすことになると言ったとされている |