年月日 1600年10月21日
場所  現在の関ヶ原町
結果 東軍(徳川家康)の勝利 
 戦いについて 天下を狙う徳川家康率いる東軍と、それを阻止するため挙兵した石田三成率いる西軍が現在の岐阜県関ケ原町で戦いは起きた。

開戦当初は、軍の数、布陣などによって西軍が有利な状況であった。
しかし、途中で西軍の内部で裏切りが起き戦況は東軍が有利な状況となった。

結果は東軍の勝利。
三成は敗走するが追捕隊に捕縛され、京都の六条河原にて斬首された。
また、この戦いに勝利した家康はこの戦いの3年後に征夷大将軍に任命、そしてのちに265年も続く江戸幕府を開いたのであった。


「天下分け目の戦い」と言われているため、戦の時間も長かっただろうと思われやすいが、裏切りがあったことで戦開始より六時間余りで勝敗が決まった。
ちょっとした知識
-西軍編-
西軍の総大将(全軍を指揮する大将のこと)は石田三成だと思われがちであるが、毛利輝元(てるもと)という人物である。

理由の1つとして、 三成自身の石高が低かったため。
西軍に属している武将よりも低ければ相手にされない、ということもあり石高を多く持つ輝元を総大将にした、とされている。

ただ、輝元が総大将というのは名目上であり、実質的には三成が仕切っていた。
西軍に関する
いい話
三成の親友、大谷吉継(よしつぐ)はこの戦いで裏切りが出ると予測をしていた。

そのためこの戦いでの西軍の布陣が実際に裏切りを起こした軍と三成がいるところの間あたりにあえて吉継は陣を構えた。
だが、裏切る軍が予想以上に多かったため吉継勢も乱壊していまい、吉継は自害をしてしまうが、友情に殉じた男の義士らしい最期であったそうだ。
 ちょっとした知識
-東軍編-
妖刀といえば、村正で有名であるがこの刀については、徳川家とかかわりがある。

家康の祖父、父は家臣の謀反により殺害されたときに使われていた刀が村正(刀を作った人物)、また家康の息子が謀反の疑いで死罪となったとき、介錯に使われたのもこの刀であるとされている。

さらには、この関ヶ原の戦いでも戦いの功をあげ、その槍を家康が見ている際に、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切った。
その槍も村正がつくったものだとされる。

こういった因縁により、徳川家は村正の作った刀を嫌悪するようになったのだとか。
(※妖刀村正伝説より)
 アクセス方法 JR岐阜駅で乗り、JR関ヶ原駅にて下車(約30分)

関ヶ原町歴史民俗資料館にて自転車をレンタルできます。
利用時間は9:00〜16:00まで。
料金は半日(4時間) 







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